2017年の読書記録(もどき)

5月22日から放置してきたこのブログだが、2017年の読書記録(もどき)をもって今年のブログ納めにしよう。これまで記事は敬体で書いてきたが、なかなか不便だということが分かったので常体で書くことにする。

はじめに

今年もこれまで通り、読むペースを上回る勢いで本を買って積読タワーを構築した私が読了した覚えのある本を紹介していきたい。ちなみに都合により、本が手元にないので詳細な説明はできないが、ご容赦願いたい。

佐藤進一『南北朝の動乱』(〈日本の歴史〉第9巻、中央公論社、1965年)(アマゾンのリンクは中公文庫だが、私が読んだのは単行本)。

日本の歴史〈9〉南北朝の動乱 (中公文庫)

日本の歴史〈9〉南北朝の動乱 (中公文庫)

今年は私のツイッターのタイムラインで日本中世、特に室町時代がフィーチャーされていた。その室町期の中で人気なのが南北朝時代である。そして、その南北朝時代について知るための基本書がこの本である。中央公論社の「日本の歴史」シリーズは未だに基本書としてその価値を持ち続けているが、その中でも佐藤進一のこの巻は、現在も南北朝時代に関する論文・書籍において、必ず参考文献に挙げられるほどの価値を持つ。史料に基づいた緻密な論の組み立てがなされており、なかなか読むのが難しかった印象があった。いずれ再読したいと思う。

柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』、黒田基樹『羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩』、丸島和洋武田勝頼 試される戦国大名への「器量」』(いずれも平凡社、2017年)

徳川家康:境界の領主から天下人へ (中世から近世へ)

徳川家康:境界の領主から天下人へ (中世から近世へ)

羽柴家崩壊:茶々と片桐且元の懊悩 (中世から近世へ)

羽柴家崩壊:茶々と片桐且元の懊悩 (中世から近世へ)

武田勝頼:試される戦国大名の「器量」 (中世から近世へ)

武田勝頼:試される戦国大名の「器量」 (中世から近世へ)

上記3冊は今年から平凡社が刊行し始めた「中世から近世へ」シリーズの書籍である。いずれも最新の研究成果に基づいて叙述されている。簡単な概略を述べていく。

徳川家康といえば、関ケ原の合戦(1600年)に勝利、征夷大将軍となり江戸幕府を開いた(1603年)以降のことを教科書で学んだ人がほとんどであろう。しかし、柴裕之『徳川家康』はいわゆる「天下人」となる前の家康の生涯を書いている。家康がさまざまな状況において「境界の領主」として悪戦苦闘していた姿が描かれている。

黒田基樹『羽柴家崩壊』は教科書では「関ケ原の合戦、家康勝利→江戸幕府成立→豊臣氏滅亡」とさらりと書かれてしまうこの政治過程について、茶々(いわゆる淀殿)が片桐且元に送った書状をもとにして丹念に明らかにしている。

丸島和洋武田勝頼』は教科書で織田信長によってあっけなく滅ぼされたように書かれている武田勝頼について、内政・外交・戦争などの面から詳しく描いている。実は勝頼が信玄期に匹敵する領国を構築していたことが分かる。今年、平山優『武田氏滅亡』(角川選書)(この本も買ったが未読)も刊行され、武田勝頼の実像が明らかにされている。今度は平山『武田氏滅亡』を読んで比較検討してみたい。

呉座勇一『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中公新書、2016年)

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

読もう読もうと思っていたが、時間がなく読むことができずに積読していた本書をようやく読了できた。現在の日本中世ブームの火付け役の本である。「応仁の乱」と聞くと室町幕府8代将軍足利義政の後継者争いと考えてしまうが、正確には管領畠山家の家督争いに幕府内の有力者同士の争いが絡み、ダラダラと長引いてしまったというものである。そのダラダラ、グダグダさを見事に描いている。しかし、まだまだ理解が甘いので折をみて再読したい。

古田島洋介『これならわかる返り点―入門から応用まで―』(新典社新書、2009年)

漢文についての知識が薄すぎるので、少しでも深めたいと思って読んでみた本である。印象に残ったのが返り点というのが論理的に成立したものではなく、慣習的に成立したものであり、現状、不具合なく機能しているが、もしかしたら漢文によっては機能し得ない可能性を持っている不安定なものであるということ。これを理解しているのとしていないのとでは、返り点に対する認識が違うだろうと感じた。

小川剛生『足利義満 公武に君臨した室町将軍』(中公新書、2012年)、同『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』(中公新書、2017年)

足利義満 - 公武に君臨した室町将軍 (中公新書)

足利義満 - 公武に君臨した室町将軍 (中公新書)

国文学者による伝記である。両書に共通するのはさまざまな史資料を駆使して実像に迫ろうとしていることである。古文書、古記録、系図類はもとより、文学作品や詩歌なども用いているのが圧巻と言わざるを得ない。この小川の姿勢は見習わなければならないと感じる。『兼好法師』では「吉田兼好」という存在が後世、捏造されたということを先の史資料を用いた研究により明らかにしている。小川のこの研究は国語の教科書にも大きな影響を与えると思う。

磯田道史『日本史の内幕 戦国女性の素顔から幕末・近代の謎まで』(中公新書、2017年)

読売新聞の連載をまとめたもので、一つ一つの話が短いのですらすら読める日本史エッセイ集である。

倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中公新書、2015年)

蘇我氏 ― 古代豪族の興亡 (中公新書)

蘇我氏 ― 古代豪族の興亡 (中公新書)

今年読了したかどうかはあやふやだが、一応入れておこう。教科書では「大化の改新乙巳の変)で蘇我氏は滅亡した」とされるが、正確には蝦夷・入鹿の蘇我氏宗家が滅んだだけで、それ以外の一族はその後も生き延びたのである。その蘇我氏の興亡を古代から中世まで通して叙述している。これも折をみて再読したい。

おわりに

以上、今年読了した(と思われる)本について簡単に述べてきた。もっと読了した本があるかもしれないが、覚えているのが以上の本である。

上記の本を読んだ感想で共通するのが「まだまだ勉強が足りない」という事である。日本史にはそれなりに興味があって本も読んできたつもりだが、まだまだ知識が足りないし、知識のアップデートも足りないことが自覚できたことが大きな収穫だった。それは国語・国文・漢文においても同様。もっと本を読んで知識の習得・更新を心がけたい。

来年、詳細にここで挙げた本について書く(予定)。来たる2018年は購入ペースと釣り合うように、より早く本を読めるようにしたいものである。

映画『ピーチガール』(松竹、2017年)

本日も例の如く映画を鑑賞してきました。『ピーチガール』を観ました。

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peachgirl-movie.jp

上田美和の同名漫画の実写化です。そして私は原作未読です。

あらすじをパンフレットから引用…しようと思いましたが、パンフレットが売り切れだったので公式サイトから引用しましょう。

安達ももは高校一年生。中学の頃から同級生のとーじに片思いをしているが、ひょんなことから学年一のモテ王子・カイリに想いを寄せられ、ももに敵意を燃やす小悪魔女子・沙絵の悪巧みにより、事態はどんどんこじれてしまう。カイリととーじの間で揺れ動き、沙絵の罠により絶体絶命に陥ったもも。果たしてこの予測不能な恋の結末は…!?

それではネタバレ込みで感想を書いていきます。

話の大まかな流れを書けば、「ももととーじが付き合う→沙絵の策略で二人が別れる→ももとカイリが付き合う→ももにカイリに対する疑念を抱く(これも沙絵の策略)→もも、カイリのぎくしゃくしていた家族の問題を解決する→とーじ、ももに再告白→結局、ももとカイリが上手くいく」といった感じです。他にも重要な場面はあったような気がしますが、思い出せないのでこのようになりました。

この映画を展開させるキャラクターとして小悪魔女子・沙絵(演:永野芽郁)の存在が重要なのですが、この沙絵が曲者です。小悪魔なんかじゃありません。ただの悪魔です。もも(演:山本美月)ととーじ(演:真剣佑)が別れる原因となることをしたのも彼女ですし、ももにカイリ(演:伊野尾慧〈Hey! Say! JUMP〉)への疑念(カイリの兄の婚約者とカイリの関係について)を抱かせたのも彼女です。それでも、ももは沙絵と関わっていこうとするのですから(劇中での教室の席が前後だからかもしれませんが)、ももはお人よしを通り越してバカなのではないかとも思いました。

そんな沙絵の本性をももととーじの前で暴いたカイリのかっこよさったらありません。胸がスッとしました。

そんなカッコいいカイリも家庭の中では問題を抱えており、その問題がももによって解決されます。お互いが抱えている問題をお互いの力によって解決してくわけですから、ももとカイリがくっつくのは必定なのかもしれません。

しかし、とーじも沙絵の策略のためとはいえ、もものためにももと別れたわけですから、ももとくっつけなかったのは少々可哀想だなあと思います。まあ、何かを選べば何かが捨てられるのはこの世の真理ですから仕方のないことなのでしょう。

私の前の席に座ったおばさん二人は涙を流して観ていました。私は泣きはしませんでしたが楽しむことができました。

笑える古典 R-指定ver.

1週間ぶりのブログ更新です。また古典の話を書きましょう。面白い(と思うもの)を見つけてきました。『日本霊異記』中巻「愛欲を生じて吉祥きちじやう天女てんにょかたちに恋ひ、感応してめづらしきしるしを示しし縁 第十三」(ちなみに出典は中田祝夫校注・訳『新編日本古典文学全集10 日本霊異記』〈小学館、1995年〉)です。

〈本文〉
和泉国いづみのくに泉郡いづみのこほり血渟ちぬの山寺に、吉祥天女𡓳像せふざう有り。聖武天皇御世みよに、信濃国しなののくに優婆塞うばそく、其その山寺にきたり住みき。の天女の像にメカリウちて愛欲を生じ、心にけて恋ひ、六時ごとに願ひて云ひしく、「天女の如き容好カほよき女を我に賜へ」といひき。優婆塞、夢に天女の像にくながふと見て、明くる日マバレバ、の像のノ腰に、不浄けがれたり。行者視て、漸愧ざんきしてまうさく、「我は似たる女を願ひしに、何ぞカタジケナク天女もはらみづかまじはりたまふ」とまうす。媿ぢて他人ひとに語らず。弟子ひそかに聞く。後其の弟子、師にゐや無きが故に、めてらる。はれて里にで、師をソしリテ事をアラハス。里人聞きて、往きて虚実こじつを問ひ、ともの像をまばれば、淫精染みけがれたり。優婆塞事を隠すこと得ずして、つぶさべ語りき。マコトる、深く信ずれば、かんこたへぬといふこときことを。奇異めづらしき事なり。涅槃経ねはんぎやうのたまふが如し。「多婬の人は、ゑがける女にも欲を生ず」とのたまへるは、其れれをふなり。

〈現代日本語訳〉
和泉の国和泉の郡の血渟の山寺に、吉祥天女の土製の像があった。聖武天皇の御代に、信濃の国の優婆塞がその山寺に来て住んだ。優婆塞はこの天女の像を流し目で見、愛欲の心を募らせ、ひたすら恋い慕って、一日六度の勤めごとに、天女のような顔のきれいな女をわたしに与えてください」と祈り願った。この優婆塞、ある夜天女の像と交接した夢を見た。明くる日天女の像をよく見ると、裳の腰のあたりに、不浄の物が染みついて、汚れていた。優婆塞はそれを見て、恥ずかしさに、「わたしは天女さまに似た女が欲しいと願っておりましたのに、どうして畏れ多くも天女御自身がわたしと交接されたのですか」と申しあげた。しかし実際恥ずかしくて、このことはだれにも言わなかった。ところが、弟子がひそかにこのことを聞き知った。後日、その弟子が師となる優婆塞に礼を尽さないので、師は叱って追い出した。弟子は追われて里に出て、師の悪口を言い、吉祥天女との情事をあばき立てた。里人はこのことを聞き、行って真偽のほどを確かめた。なるほどその像を見ると、淫水で汚れていた。優婆塞は事を隠しきれずに、詳しくわけを話した。深く信仰すると、神仏に通じないことはないということがほんとうにわかる。これは不思議なことである。涅槃経に、「多淫の人は絵に描いた女にも愛欲を起す」と述べておられるのは、このことをいうのである。

この話で面白いのは最後の「諒ニ委る、深く信ずれば、感の応へぬといふこと无きことを。是れ奇異しき事なり。涅槃経に云ふが如し。「多婬の人は、画ける女にも欲を生ず」と者へるは、其れ斯れを謂ふなり。」という文章が前後で通じていないことです。

前段では深く信仰すれば神仏に通じる(通じた結果が吉祥天女との交接だったわけですが)と好意的に読めますが、後段では涅槃経に「スケベなやつは絵の女でもエロく感じる」とありますよ、と優婆塞のことをディスっているように読めます。

日本霊異記』の作者の景戒きょうかいはどういう意図でこの文を書いたのでしょうか。作者は優婆塞のことを「エロいながらも神仏を深く信仰したやつ」と考えたからこそ、前後の通じない文章で自身の考えを読者が感じ取れるようにしたのでしょうか。

それにしても、「多婬の人は、画ける女にも欲を生ず」とはなかなかの偏見がありますね。別に絵の女性のことを「いいなあ」と思う人が「多淫」ということはないと思うのですが…。

免許更新

今日は運転免許の更新をしました。初回更新者なので2時間しっかりと講習を受けてきました。

更新後の免許は「準中型免許」というものになっていました。今年(2017年)3月に施行された改正道路交通法でこれまでの普通免許、中型免許、大型免許に加えて、普通免許と中型免許の間に準中型免許が作られました。

準中型免許では車両総重量7.5トン未満(最大積載量4.5トン未満)の自動車が運転でき、新たな普通免許では車両総重量3.5トン未満(最大積載量2トン未満)の自動車が運転できるとのこと。

私は改正前の道路交通法で普通免許を取得したので車両総重量5トン未満(最大積載量3トン未満)の自動車を運転できたわけで、結果として改正道路交通法のもとでは「5トン未満に限る」と条件が付きますが、準中型免許になったわけです。

そういえば免許証の写真ですが、更新前の写真はなんだか偉そうな感じになってしまったのですが、今回の写真は顎をきちんと引いたので、割合上手く撮れたのではないかと思います。

笑える古典

私のような者もツイッターなるものをしているのですが、面白いツイートが流れてきました。

このツイートにある『日本霊異記』の元の話がどういう話なのか気になったので調べてみました。

まず、大学附属図書館でジャパンナレッジで「常栄」という語で調べてみました。しかし、どの文章にもヒットしない。どうしたものかと思い、「碁」という語で調べました。すると何件かヒットする中にこれかなと思うものが見つかりました。

そこに出てくるお坊さんの名前は「栄常」。そりゃ「常栄」じゃあヒットしないはずです。こういうことがあるから、ネットの情報は検討を要するわけです。

それはともかく。話は『日本霊異記』中巻の「法花経を読む僧をあざけりて、現に口喎斜ゆがみて、悪死のむくいを得し縁 第十八」というものです。以下に本文・現代日本語訳を書きます。出典は中田祝夫校注・訳『新編日本古典文学全集10 日本霊異記』(小学館、1995年)です。

〈本文〉
 にし天平年中、山背国やましろのくに相楽郡さがらかのこほりの部内に、ひとり白衣びやくえ有りき。姓名あきらかならず。同じ郡の高麗寺こまでらの僧栄常えいじやう、常に法花経を誦持ずぢしき。の白衣、僧との寺に居て、しまらくあひだしき。僧、碁のをぢをぢに、「栄常師の碁の手ぞ」と言ふことをす。遍毎たびごとに言ふ。白衣僧をあざけり、ことさらおのれが口をモトリテ、まねび言ひて曰はく、「栄常師の碁の手ぞ」といふ。くの如く重ね重ね止まずしてなほまねぶ。ここ奄然たちまちに白衣の口喎斜ユガミヌ。恐りて手をおトガヒを押へ、寺をでて去る。去る程遠くあらずして、身を挙げて地にたふれて、たちまち命終みやうじゆしぬ。見聞きし人の云ひしく、「刑を加へずといへども、心にあざけまねび言へば、口喎斜ゆがみ、忽然たちまちにして死ぬ。いかいはむや、怨讎あたの心をおこし、刑罰を加ふるはや」といひき。法花経にのたまはく、「賢僧と愚僧と、同じ位に居ること得じ。また長髪の比丘びくは、白衣の髪鬢はつびんらずして賢なると、位を同じくし器を同じくして用ゐること得じ。し強ひて位する者は、あかがねアラズミの上に鉄丸をきて吞み、地獄にちむ」とのたまへるは、其れれをふなり。

〈現代日本語訳〉
 過ぎし天平年中、つまり聖武天皇の御代に山城の国相楽の郡内に一人の俗人がいた。姓名はわからない。その同じ郡内の高麗寺の僧栄常は、いつも法華経を声に出して読んでいた。さてその俗人は栄常と高麗寺で少しのひまがあると碁を打った。栄常は一目置くごとに、口癖のように、「これが栄常さまの碁の打ち方であるぞ」と言った。打つたびごとに言った。俗人は栄常をあざけって、わざと自分の口をゆがめてまねをし、「これが栄常さまの碁の打ち方であるぞ」と言い返した。このように何度も何度もまねし続けた。と、たちまち俗人の口がゆがんでしまった。彼は驚いて手であごを押えて、寺から出て行った。寺を出ていくらも行かないうちに、彼は全身ごと地面に倒れ、たちまち死んでしまった。これを見聞きした人は、「僧にこれという刑罰を加えなくても、あざけりの心で僧の口まねをすれば、口がゆがみ、たちまちのうちに死ぬ。まして僧に恨みの心を抱き、刑罰を加えた者はなおさらである」と言った。法華経に、「賢僧と愚僧は同じ位にいることはできない。また長髪の出家でも、仏弟子たる者は、髪やひげを剃らない俗人の賢者と、同席に着いたり、同じ食器を用いることはできない。もし強いて同席に着く者は、死後、熱せられた銅板や炭火の上に立たされ、熱した鉄の玉を飲み、地獄に落ちるだろう」と述べておられるのは、これをいうのである。

これを読めばわかりますが、栄常を煽った俗人は確かに問題はありますが、石を一目置くごとに「これが栄常さまの碁の打ち方であるぞ」という栄常も相当変わっています。しかし、「いつも法華経を声に出して読んでいた」栄常は特に問題なく、栄常をあざけった俗人は口がゆがんで死んでしまったというわけです。

たまに街中で配っている宗教のパンフレットでは「最後の審判のときに、信じる者は救われて神の国にいける」的なことが書かれていますが、法華経では最後の審判どころか現世ですぐに罰せられるのです。即効性が高いですね。

とまあ、こんな感じで時々、古典について書いていこうと思います。

読んでいる漫画

ゴールデンウィーク中に何もなかったので更新しなかったのですが、昨日からいつも通りになったので更新を再開したいと思います。

昨日、ジャンプSQ6月号を買いました。

もともと買うきっかけになった連載はすべて終わっているので購読をやめてもいいのですが、2年くらい前から連載が始まった「千早さんはそのままでいい」が面白いので買い続けています。

千早さんはそのままでいい 1 (ジャンプコミックス)

千早さんはそのままでいい 1 (ジャンプコミックス)

千早さんはそのままでいい 2 (ジャンプコミックス)

千早さんはそのままでいい 2 (ジャンプコミックス)

簡単なあらすじをいえば、食べることが大好きな主人公の女子高生のダイエット奮闘コメディです。主人公の千早さんはいつもダイエットをすると宣言するのですが、結局我慢できず食べてしまうのです。

そして、昨日買ったジャンプスクエア6月号では、その千早さんがなぜダイエットを志すようになったのかという理由が明らかになっています。

その理由がまたかわいい。やはり食べることが大好きでも恋をしているのだなあと思いました。来月も楽しみです。