笑える古典

私のような者もツイッターなるものをしているのですが、面白いツイートが流れてきました。

このツイートにある『日本霊異記』の元の話がどういう話なのか気になったので調べてみました。

まず、大学附属図書館でジャパンナレッジで「常栄」という語で調べてみました。しかし、どの文章にもヒットしない。どうしたものかと思い、「碁」という語で調べました。すると何件かヒットする中にこれかなと思うものが見つかりました。

そこに出てくるお坊さんの名前は「栄常」。そりゃ「常栄」じゃあヒットしないはずです。こういうことがあるから、ネットの情報は検討を要するわけです。

それはともかく。話は『日本霊異記』中巻の「法花経を読む僧をあざけりて、現に口喎斜ゆがみて、悪死のむくいを得し縁 第十八」というものです。以下に本文・現代日本語訳を書きます。出典は中田祝夫校注・訳『新編日本古典文学全集10 日本霊異記』(小学館、1995年)です。

〈本文〉
 にし天平年中、山背国やましろのくに相楽郡さがらかのこほりの部内に、ひとり白衣びやくえ有りき。姓名あきらかならず。同じ郡の高麗寺こまでらの僧栄常えいじやう、常に法花経を誦持ずぢしき。の白衣、僧との寺に居て、しまらくあひだしき。僧、碁のをぢをぢに、「栄常師の碁の手ぞ」と言ふことをす。遍毎たびごとに言ふ。白衣僧をあざけり、ことさらおのれが口をモトリテ、まねび言ひて曰はく、「栄常師の碁の手ぞ」といふ。くの如く重ね重ね止まずしてなほまねぶ。ここ奄然たちまちに白衣の口喎斜ユガミヌ。恐りて手をおトガヒを押へ、寺をでて去る。去る程遠くあらずして、身を挙げて地にたふれて、たちまち命終みやうじゆしぬ。見聞きし人の云ひしく、「刑を加へずといへども、心にあざけまねび言へば、口喎斜ゆがみ、忽然たちまちにして死ぬ。いかいはむや、怨讎あたの心をおこし、刑罰を加ふるはや」といひき。法花経にのたまはく、「賢僧と愚僧と、同じ位に居ること得じ。また長髪の比丘びくは、白衣の髪鬢はつびんらずして賢なると、位を同じくし器を同じくして用ゐること得じ。し強ひて位する者は、あかがねアラズミの上に鉄丸をきて吞み、地獄にちむ」とのたまへるは、其れれをふなり。

〈現代日本語訳〉
 過ぎし天平年中、つまり聖武天皇の御代に山城の国相楽の郡内に一人の俗人がいた。姓名はわからない。その同じ郡内の高麗寺の僧栄常は、いつも法華経を声に出して読んでいた。さてその俗人は栄常と高麗寺で少しのひまがあると碁を打った。栄常は一目置くごとに、口癖のように、「これが栄常さまの碁の打ち方であるぞ」と言った。打つたびごとに言った。俗人は栄常をあざけって、わざと自分の口をゆがめてまねをし、「これが栄常さまの碁の打ち方であるぞ」と言い返した。このように何度も何度もまねし続けた。と、たちまち俗人の口がゆがんでしまった。彼は驚いて手であごを押えて、寺から出て行った。寺を出ていくらも行かないうちに、彼は全身ごと地面に倒れ、たちまち死んでしまった。これを見聞きした人は、「僧にこれという刑罰を加えなくても、あざけりの心で僧の口まねをすれば、口がゆがみ、たちまちのうちに死ぬ。まして僧に恨みの心を抱き、刑罰を加えた者はなおさらである」と言った。法華経に、「賢僧と愚僧は同じ位にいることはできない。また長髪の出家でも、仏弟子たる者は、髪やひげを剃らない俗人の賢者と、同席に着いたり、同じ食器を用いることはできない。もし強いて同席に着く者は、死後、熱せられた銅板や炭火の上に立たされ、熱した鉄の玉を飲み、地獄に落ちるだろう」と述べておられるのは、これをいうのである。

これを読めばわかりますが、栄常を煽った俗人は確かに問題はありますが、石を一目置くごとに「これが栄常さまの碁の打ち方であるぞ」という栄常も相当変わっています。しかし、「いつも法華経を声に出して読んでいた」栄常は特に問題なく、栄常をあざけった俗人は口がゆがんで死んでしまったというわけです。

たまに街中で配っている宗教のパンフレットでは「最後の審判のときに、信じる者は救われて神の国にいける」的なことが書かれていますが、法華経では最後の審判どころか現世ですぐに罰せられるのです。即効性が高いですね。

とまあ、こんな感じで時々、古典について書いていこうと思います。