笑える古典 R-指定ver.

1週間ぶりのブログ更新です。また古典の話を書きましょう。面白い(と思うもの)を見つけてきました。『日本霊異記』中巻「愛欲を生じて吉祥きちじやう天女てんにょかたちに恋ひ、感応してめづらしきしるしを示しし縁 第十三」(ちなみに出典は中田祝夫校注・訳『新編日本古典文学全集10 日本霊異記』〈小学館、1995年〉)です。

〈本文〉
和泉国いづみのくに泉郡いづみのこほり血渟ちぬの山寺に、吉祥天女𡓳像せふざう有り。聖武天皇御世みよに、信濃国しなののくに優婆塞うばそく、其その山寺にきたり住みき。の天女の像にメカリウちて愛欲を生じ、心にけて恋ひ、六時ごとに願ひて云ひしく、「天女の如き容好カほよき女を我に賜へ」といひき。優婆塞、夢に天女の像にくながふと見て、明くる日マバレバ、の像のノ腰に、不浄けがれたり。行者視て、漸愧ざんきしてまうさく、「我は似たる女を願ひしに、何ぞカタジケナク天女もはらみづかまじはりたまふ」とまうす。媿ぢて他人ひとに語らず。弟子ひそかに聞く。後其の弟子、師にゐや無きが故に、めてらる。はれて里にで、師をソしリテ事をアラハス。里人聞きて、往きて虚実こじつを問ひ、ともの像をまばれば、淫精染みけがれたり。優婆塞事を隠すこと得ずして、つぶさべ語りき。マコトる、深く信ずれば、かんこたへぬといふこときことを。奇異めづらしき事なり。涅槃経ねはんぎやうのたまふが如し。「多婬の人は、ゑがける女にも欲を生ず」とのたまへるは、其れれをふなり。

〈現代日本語訳〉
和泉の国和泉の郡の血渟の山寺に、吉祥天女の土製の像があった。聖武天皇の御代に、信濃の国の優婆塞がその山寺に来て住んだ。優婆塞はこの天女の像を流し目で見、愛欲の心を募らせ、ひたすら恋い慕って、一日六度の勤めごとに、天女のような顔のきれいな女をわたしに与えてください」と祈り願った。この優婆塞、ある夜天女の像と交接した夢を見た。明くる日天女の像をよく見ると、裳の腰のあたりに、不浄の物が染みついて、汚れていた。優婆塞はそれを見て、恥ずかしさに、「わたしは天女さまに似た女が欲しいと願っておりましたのに、どうして畏れ多くも天女御自身がわたしと交接されたのですか」と申しあげた。しかし実際恥ずかしくて、このことはだれにも言わなかった。ところが、弟子がひそかにこのことを聞き知った。後日、その弟子が師となる優婆塞に礼を尽さないので、師は叱って追い出した。弟子は追われて里に出て、師の悪口を言い、吉祥天女との情事をあばき立てた。里人はこのことを聞き、行って真偽のほどを確かめた。なるほどその像を見ると、淫水で汚れていた。優婆塞は事を隠しきれずに、詳しくわけを話した。深く信仰すると、神仏に通じないことはないということがほんとうにわかる。これは不思議なことである。涅槃経に、「多淫の人は絵に描いた女にも愛欲を起す」と述べておられるのは、このことをいうのである。

この話で面白いのは最後の「諒ニ委る、深く信ずれば、感の応へぬといふこと无きことを。是れ奇異しき事なり。涅槃経に云ふが如し。「多婬の人は、画ける女にも欲を生ず」と者へるは、其れ斯れを謂ふなり。」という文章が前後で通じていないことです。

前段では深く信仰すれば神仏に通じる(通じた結果が吉祥天女との交接だったわけですが)と好意的に読めますが、後段では涅槃経に「スケベなやつは絵の女でもエロく感じる」とありますよ、と優婆塞のことをディスっているように読めます。

日本霊異記』の作者の景戒きょうかいはどういう意図でこの文を書いたのでしょうか。作者は優婆塞のことを「エロいながらも神仏を深く信仰したやつ」と考えたからこそ、前後の通じない文章で自身の考えを読者が感じ取れるようにしたのでしょうか。

それにしても、「多婬の人は、画ける女にも欲を生ず」とはなかなかの偏見がありますね。別に絵の女性のことを「いいなあ」と思う人が「多淫」ということはないと思うのですが…。