笑える古典 R-指定ver.
1週間ぶりのブログ更新です。また古典の話を書きましょう。面白い(と思うもの)を見つけてきました。『日本霊異記』中巻「愛欲を生じて
〈本文〉
〈現代日本語訳〉
和泉の国和泉の郡の血渟の山寺に、吉祥天女の土製の像があった。聖武天皇の御代に、信濃の国の優婆塞がその山寺に来て住んだ。優婆塞はこの天女の像を流し目で見、愛欲の心を募らせ、ひたすら恋い慕って、一日六度の勤めごとに、天女のような顔のきれいな女をわたしに与えてください」と祈り願った。この優婆塞、ある夜天女の像と交接した夢を見た。明くる日天女の像をよく見ると、裳の腰のあたりに、不浄の物が染みついて、汚れていた。優婆塞はそれを見て、恥ずかしさに、「わたしは天女さまに似た女が欲しいと願っておりましたのに、どうして畏れ多くも天女御自身がわたしと交接されたのですか」と申しあげた。しかし実際恥ずかしくて、このことはだれにも言わなかった。ところが、弟子がひそかにこのことを聞き知った。後日、その弟子が師となる優婆塞に礼を尽さないので、師は叱って追い出した。弟子は追われて里に出て、師の悪口を言い、吉祥天女との情事をあばき立てた。里人はこのことを聞き、行って真偽のほどを確かめた。なるほどその像を見ると、淫水で汚れていた。優婆塞は事を隠しきれずに、詳しくわけを話した。深く信仰すると、神仏に通じないことはないということがほんとうにわかる。これは不思議なことである。涅槃経に、「多淫の人は絵に描いた女にも愛欲を起す」と述べておられるのは、このことをいうのである。
この話で面白いのは最後の「諒ニ委る、深く信ずれば、感の応へぬといふこと无きことを。是れ奇異しき事なり。涅槃経に云ふが如し。「多婬の人は、画ける女にも欲を生ず」と者へるは、其れ斯れを謂ふなり。」という文章が前後で通じていないことです。
前段では深く信仰すれば神仏に通じる(通じた結果が吉祥天女との交接だったわけですが)と好意的に読めますが、後段では涅槃経に「スケベなやつは絵の女でもエロく感じる」とありますよ、と優婆塞のことをディスっているように読めます。
『日本霊異記』の作者の
それにしても、「多婬の人は、画ける女にも欲を生ず」とはなかなかの偏見がありますね。別に絵の女性のことを「いいなあ」と思う人が「多淫」ということはないと思うのですが…。